平成22年 地域伝統文化総合活性化事業
横浜の近代建築資産の保全・活用によるまちの魅力づくり 記録集(平成23年3月)
 
市民向け普及啓発セミナー 絹が育てた横浜の近代建築
(3)シンポジウム 「絹が育てた横浜の近代建築」
 
(3)「生糸がつくった建物、生糸を守った建物」
 
日 時
会 場
参加者
  2010年2月11日(祝・金) 13:30〜16:30
ヨコハマ創造都市センター
(YCC)3階
93名
■概要
□ご挨拶(横浜歴史資産調査会会長 宮村 忠)
 
・河川工学では、氾濫をどうするかというのが大きな問題で、地図を見ると桑のマークのあるところがあるが、これは、氾濫する可能性のある場所だった。治水が進み氾濫することも少なくなったので、背の高い桑を植えることが少なくなった。河川工学が専門である私にとって桑は大変興味があるテーマだが、今日は養蚕や絹に関する様々のご専門から興味深いお話が聞けると、楽しみにしております。
□講演 I 横浜開港とシルク貿易(シルク博物館専門員 小泉勝夫
)
1.開港による生糸貿易のはじまり
 
・わが国が開港したころ、生糸の需要の非常に高いヨーロッパで蚕の微粒子病(蚕の伝染病)が万延し生糸が大変不足したことや、生糸の大生産国である清国(現在の中国)で、第二次アヘン戦争や太平天国の乱があったなど、日本にとって幸運なことが重なり、安価で上質な日本生糸が大量に輸出されていくようになった。
・取引がはじまると、各産地の生糸は横浜へ横浜へと運ばれ、高値で取引され輸出額の第1位を占め、基幹産業として日本経済を支えた。
・生糸は開港以来関東大震災直前まで、ほとんど横浜1港から輸出されており、東北・関東・甲信地帯で、横浜での生糸取引量の約90%近い量は、これらの地帯のものだった。文久年間に横浜で扱った生糸量をみると、東北地帯の生糸が最も多く約46%を占めていたが、上州が1位になり、その後信州のめざましい蚕糸業の発達により、生糸の生産量はたちまち上州を抜き、信州が全国第1位を占め続けるようになった。
・開港当初、日本生糸の消費国は主に英国、フランスだったが、明治10年代後半に入ると米国がわが国の生糸の輸出量の半分以上を輸入するようになり、以後わが国の生糸はアメリカ主体の輸出へと変わった。
・横浜では生糸が高値で取引されたので、一攫千金を夢見た国内各地の商人たちが、横浜へと集まってきた。しかし、実際に外商と取引をしてみると、現実は甘くなく「朝は御大尽、夜は乞食」ということがいわれた。この原因には、たびたび海外で起こった大きな経済不況や経済恐慌や、取引拒否などがあった。
2.粗製乱造の生糸輸出問題と器械製糸のはじまり
 
・横浜開港によって、生糸が外国に高値で輸出されるようになると、国内では不良生糸の製造がされるようになった。
・繰糸能率を上げるため、外見は外国人が好む細い糸に見せかけ、内部は非常に太い糸とし、切断しても糸を繋がない綛(かせ
)造りを行ったり、提(さ)げ糸の元結部分の厚紙に石灰を漉き込んだり、鉛等を隠し込んで増重するなど目に余る悪質な生糸を輸出したため、ヨーロッパの市中に日本製生糸がダブつき、価格は低落し不評をかった。
・前橋藩は明治のはじめに横浜で生糸価格等の調査を行ったところ、日本生糸は外国糸に比較して非常に質が悪く、価格が半値以下という状況であることを知り、1870(明治3
)年にイタリー式の器械製糸器を導入した。
・明治政府は不良生糸の輸出防止の取締りを強化する一方、外国からの要請もあり器械製糸技術を導入した官営の富岡製糸場(明治5年操業
)をはじめ、赤坂葵町製糸場、札幌製糸場を建設、全国に器械製糸の新技術を普及し、製糸業の近代化へ向け大きく歩みはじめた。
・1872(明治5
)年8月で、小野組東京築地の製糸器械(イタリー式製糸機)が諏訪地方(深山田製糸場)へ導入された。1874(明治7)年には官営富岡製糸場のフランス式器械製糸技術が松代方面(六工社)へ導入された。神奈川県に器械製糸が入ったのは清水製糸に明治22年と遅かった。
・明治時代は長野県(諏訪
)、岐阜県、愛知県などで器械製糸が発達した。
3.横浜への絹の道・復路は文化の道
 
・絹の道といえば八王子の話が有名。今でも八王子には昔を偲ばせる道がある。
・長野県からは利根川などを使って水運で横浜へ多く運ばれたといわれている。
・鉄道が全国各地に敷設されると、陸運・水運による横浜への絹の道は鉄道による絹の道へと変わった。1883(明治16
)年には大きな養蚕地帯である熊谷まで高崎線が敷設され、東北方面も東北本線が1887(明治20)年には郡山・塩釜まで、1891(明治24)年には青森まで伸びた。
・信州の生糸は、1885(明治18
)年には碓氷峠を越えて横川から高崎まで開通した信越線で横浜に運ばれた。1893(明治26)年に信越線が全線開通したので、県内の大量の生糸は信越線で輸送された。
・絹の道の復路は、横浜から各地へ西洋のさまざまな文化(例えば、病院・気象観測・時計・ホテル・屠牛・パン・新聞・レストラン・キリスト教・テーラー・ドレスメーカー・クリーニング・理髪・劇場・アイスクリーム・牛乳・義足・ビール・洋楽器・外国郵便・テニス・電話など
)を運ぶ道になった。
・生糸貿易をすることにより、横浜、日本が栄えてきた。しかし、1975(昭和50
)年からは生糸輸出はなくなり、中国に抜かれ、現在は世界有数のシルク輸入消費国に様変わりした。
 
□講演 II 絹が育てた歴史的建造物と町並(工学院大学教授 後藤 治)
1.産業としての「絹」の多様性
 
・建築の歴史の研究では時代・種別で専門分野が分かれるが、産業をキーワードにするとさまざまな種別にまたがる。産業としての絹は、生産だけでも蚕の農家、蔵、糸の工場、織物工場が関わり、取引では外国商社、運搬に関わる設備、検査場など産業に関わるものが様々残されている。
・産業遺産というと建築、土木的なものだけではなく、原料の産地の施設(桑を提供する施設
)、動力を提供する施設(電力)、労働者のための住宅など、産業資本家の家、労働者の生活のための施設など幅広く定義されているが、今回は建築、土木的なものを中心に紹介する。
2.各地の養蚕農家の紹介(スライド紹介)
 
・群馬県の養蚕用に作られている家の特徴は、各階を養蚕用に使っている。2階部分が発達して、空気を入れ換えたりできるようになっている。集落として見るとバラエティーに富んでいる。これは、それぞれの地形に合わせて工夫した結果だと言える。
・他にも福島県南会津、白川村、山梨県の上条という集落、長野県の白馬村の集落があり、同じ蚕を育てるのにさまざまな特徴がある。
・山形県鶴岡市のかぶと造の家、福島県南会津の曲がり屋(L字型
)、東京都桧原村のかぶと造が二段になったような作り、山梨のものは切り上げ屋根と言われている。それぞれ蚕のために作っているが、江戸から明治以降に盛んになるが、それまでの地形に合ったベースとなる家も違うし、各地域の大工さんの工夫で異なってくる。日本中で養蚕はやっていたが、養蚕に依存する度合いなどを反映している。養蚕に賭けているようなところでは家の形を変えても盛んにやったが、サイドビジネス的にやったところは家の形を変えなかった。
3.その他の産業遺跡(スライド紹介)
 
・群馬県の世界遺産の運動の中で、碓氷峠の鉄道も含めて運動されている。信越線はもともと軍用で、新潟と結ぶ石油を運ぶパイプラインがある。
・東京駅も絹の拠点であった。さまざまな産業遺産がある。
・桑畑もさまざまである。町田市、信州上田、群馬の沼田と、桑畑も地形によって異なる。群馬の沼田では、りんごの木に転換されていて農家が残っていたりする。
・蚕糸を現在もやっている愛媛県の施設。工場風になっている。
・個人経営でやるか会社でやるか、というのは始めた時期にもよる。後発のところはある程度大きな工場で始めたところが多い。諏訪や岡谷、愛媛はやや後発だった。
・繭蔵も、普通の土蔵から群馬の煉瓦造、長野はひさしのついた蔵など、養蚕農家の規模や、もともとの蔵の工法の応用を反映している。
・工場も農家の庭先でやっているようなところから、町工場のようになっていたり、のこぎり屋根の工場など、様々である。富岡のように国が作ったり、どういうところがどういう戦略で作ったかで違ってくる。
・綿や化繊など、産業転換でやっていったところもある。長野の上田の蔵を見ると、屋根のついた蔵からコンクリートになっている。
・杉並区の試験場は門だけ、山形の新庄では「繭の里」という名前で国の蚕糸試験場が建物も残っている。豊田市には洋風建築の検査場が残っている。
・今日は横浜の紹介はしないが、この機会に横浜の産業遺産に目を向けていただきたい。
 
□パネルディスカッション 絹がつくるまちづくり
星  和彦(NPO法人 街・建築・文化再生集団
)
松尾 俊彦(町田市街づくり審査会委員
)
北澤 克夫(協同組合ギルダ横浜
)
吉田 鋼市(横浜国立大学大学院教授・当法人副会長
)
・コーディネーター 米山 淳一(当法人常務理事
)
・コメンテーター 後藤 治(工学院大学教授
)
1.「NPO法人 街・建築・文化再生集団」の活動(星 和彦)
 
・13年ほど前から活動している。群馬に来てはじめは養蚕の施設に驚いたが、地元の人には珍しくなく、それが壊されているのを見てきた。群馬の中で道や川でつながり、横浜に運ばれて世界に出て行った、ということが重要。養蚕から織物までを意識し、そこからまちづくりを考えていきたい。
・山梨県に養蚕に関わる建築、集落の作り方などを勉強しに行った。養蚕のもとを辿ると上田にもあった。世界遺産の活動を特徴づけるものは富岡製糸や鉄道がある。養蚕農家は残っているが、対象になっていないのが残念である。街・建築・文化再生集団の活動をもっと活発にして、養蚕からつながるようにしていきたい。
2.多摩と養蚕の関わり(松尾俊彦)
 
・横浜と八王子を結ぶ絹の道があったということで、昭和32年に鑓水に碑ができた。日本中に絹の道があったが、水運のルートが非常に多かったと言われている。横浜が開港してから明治22年に甲武鉄道が開通する前まで、非常に栄えた。
・多摩地区の養蚕は、江戸時代の前から桑畑があり、養蚕や織物をやっていた記録がある。綿が有名だが、絹も盛んだった。多摩にも蚕の卵の販売をやっていた会社があったようだ。
・歴史的な建物は鑓水に集中している。生糸を扱った有名な鑓水商人の八木下要右衛門の屋敷の「絹の道資料館」、小泉家など。
・中継地の町田では片倉が栄えていたようだ。明治42年の地図を見ると、全面桑畑だった。現在の小田急の町田駅前に絹の道碑がある。馬肉屋さん、古着などが絹の道の名残かもしれない。
・多摩だけではあまり絹に関連する施設が多くないので、横浜や群馬と連携しながらまちづくりをやっていきたい。
3.横浜スカーフ(北澤克夫)
 
・地理的条件(大岡川、帷子川の水資源)、人材、集荷条件に恵まれて横浜スカーフは輸出型大型の地場産業として栄えた。
・大岡川、帷子川で染めたり糊落としをやったため、川の水が日によって違う色に染まるようなことがあった。近代的な工場で、機械でやるようになった。
・吉川栄治(19歳まで横浜在住
)のエッセイのなかで、横浜スカーフに従事する労働者のことが描かれている。友禅や版画の技術者の力もあって、プリント技術が向上した。戦後は途上国の発展によってアメリカのシェアが奪われたが、ブランドものの委託で好況であった。平成に入って低迷となり、4つの組合で協同組合ギルダ横浜を立ち上げ新しいマーケット開発を行っている。
4.横浜の生糸に関わる建築(吉田鋼市)
 
・現存する生糸に関わる建物として、移築だが旧清水製糸場本館(天王森泉館)は事務所のような人が集まれる場所がある。旧大岡家長屋門(長屋門公園内に移築)は2階で養蚕が行われていた。
・新川家では今も人がお住まいで、2階で養蚕が行われていた。愛川町では撚糸工場が残っている。現在は使われていないが建物がある。愛川町には昭和30年代に建てた撚糸工場がいくつかある。
・生糸検査所の倉庫1棟が残されている。第2合同庁舎の足元に生糸検査所の建物外観が再現されている。生糸検査所の創建当初から常に遠藤於菟が関与している。フラットスラブという梁のない建物を実現した。当初の建物は昭和57年以前は横浜地方検察庁の場所にあった。
・デローロ商会の塀だけ昔のものが残されている。
・三井物産は明治44年には梁があったが、昭和2年に増築された時には梁のないものになっている。倉庫はいろいろな構造が使われている。
・シルクセンターは上はホテルだったが、今はオフィス(SOHO
)になっている。
5.コメント(後藤治)
 
・産業遺産というのは幅広い言い方をすれば見つかるので、スカーフで言えばどこで売られていてファッションをどう変えたか、と考えると発見できる。それを知っていることが重要で、今、価値を見つけて伝えていかないといけないと考えている。今住んでいる杉並区では蚕糸試験場があったお陰で、子どもの頃に蚕を飼った経験があるが、今の若い人は絹の産業があったことも知らないと思うので、こうしたことを今、語り伝えなければいけない。
<質疑応答>
Q. 工場はどのあたりにあったか。
A.(北澤
).上大岡駅前にあったが、再開発で廃業して今はなくなった。上星川に大きな捺染工場があった。
Q. 養蚕の住宅はどのくらいあるのか。
A.(小泉
).養蚕農家は全国で700戸、神奈川県は12戸といわれている。 
6.「文化を地域遺産としてつなげていく」という視点について
 
・まちづくりは特別なことではなく、語り継いで残していく作業だと思う。バックボーンを大切にしないと滅びてしまう。世界遺産も奉るものではなくて今の生活に役立つものにしていきたい。(星)
・多摩というのは絹の遺産の集積という意味では厳しい。群馬、横浜は、それぞれのネットワークを作っていると思う。広域な連携も含め、新しい魅力資産もつなげていきたい。まちづくりはハードだけではなく、歴史遺産を守ったり人が交流するソフトがまずあること。市民が主体になっている活動(町田の小野路宿の例)を絹の関係でも応用していきたい。(松尾
)
・協同組合ギルド横浜は意識改革の団体である。ものづくりは、生産と販売がパートナーでなければいけない。後援をお願いしたい。(北澤
)
・横浜では市も努力している。民間の活動がどれだけ高まるか、ということが重要だと思われる。(吉田
)
・日本の世界遺産の見方は限定的。世界遺産は目標ではなく保存した結果となるべきもの。ヨーロッパでは、世界の中での位置づけだけではなく自分たちの生活がどう変わったか、ということも重視されている。(後藤
)
7.まとめ(米山淳一)
 
・素晴らしいお話をありがとうございました。世界遺産なども広域連携をして物語性を持っていく、という視点が重要だと思われる。
・絹についても、ヨコハマヘリテイジとして、横浜、群馬、福島、多摩などとの連携に取り組んでいきたい。今日はそのネットワークづくりの一歩が踏み出せた、と感じている。
■パネル展示(協力:NPO法人 街・建築・文化再生集団)
■講師プロフィール
小泉 勝夫(こいずみ かつお)
長野県上田市出身、信州大学繊維学部卒業
愛知県蚕業試験場、神奈川県蚕業試験場、神奈川県蚕業センター、神奈川県津久井地区行政センター、湘南地区行政センター、神奈川県農業総合研究所蚕糸検査場(場長)、
財団法人シルクセンター国際貿易観光会館博物館部(シルク博物館部長、現在専門員
)に勤務
著書「ー蚕糸業史ー 蚕糸王国日本と神奈川の顛末」など多数

後藤 治(ごとう おさむ
)
1960年東京都生まれ、工学院大学教授。専攻は日本建築史・保存修復。
著書は「建築学の基礎 日本建築史」(共立出版
)、「日本の近代化遺産」(共編著、河出書房新社)、「東京の近代建築」(共編著、地人書館)など。
2003年 群馬県養蚕集落調査(文化庁委託
)に携わる。長野県文化財保護審議会会長。

星 和彦(ほし かずひこ
)
1951年東京都生まれ。前橋工科大学教授/NPO法人街・建築・文化再生集団理事長/工学博士
日本建築学会関東支部建築歴史・意匠専門研究委員会委員
シェークスピアからディケンズにかけての英国建築史と建築文化をこれからの社会の資源として確立する方法をテーマに西洋建築史(英国建築史
)、歴史的環境(建築文化資源学)を専攻する。

NPO法人 街・建築・文化再生集団
1999年 歴史的景観・建築物の保全と活用、歴史資産を活かした住みやすいまちづくりを目指して、星 和彦を中心に法人設立。以来、県内を中心に各地でシンポジウム・研究集会を開催。2011年は絹産業をテーマに横浜で開催予定。

松尾 俊彦(まつお としひこ)氏
1946年東京都生まれ、1970年早稲田大学法学部卒業。国際航業(株)を経てパシフィックコンサルタンツ(株)勤務。建設コンサルタントとして行政機関の都市計画、街づくり、施設設計などに関わる。その後、関係会社で防衛施設技術協会刊行「自衛隊施設内の歴史的建造物」編集の機会を持ち2008年退職。現在、町田市街づくり審査会委員

北澤 克夫(きたざわ かつお
)
商社勤務を経て、現在、協同組合ギルダ横浜の常務理事、事務局長。
地場産業「横浜スカーフ」が衰退する中、それまで分業体制で行われていた製版、染色、縫製工場間のネットワーク化を図り、2002年、横浜スカーフの伝統を受け継ぐ職人集団「ギルダ横浜」を発足。スカーフ製作で培った技術で服飾品全般の染色加工の需要に応える態勢を整えるなど、横浜地場産業再生に取り組む。

吉田 鋼市(よしだ こういち
)
1947年兵庫県生まれ 横浜国立大学大学院教授。専攻は建築史・建築理論。
著書は「図説アール・デコ建築」(河出書房新社
)、「西洋建築史」(森北出版)など。
1981年から横浜・神奈川の近代建築の実測調査に携わる。横浜歴史資産調査会副会長。

米山淳一(よねやま じゅんいち
)
1951年生まれ、社団法人横浜市歴史的資産調査会(ヨコハマヘリテイジ
)常任理事。専門は歴史、自然遺産の保存・活用・再生。元財団法人日本ナショナルトラスト事務局長。
著書は、「まちづくりとシビックトラスト」(共著、ぎょうせい)、 「歩きたい歴史の町並み『重要伝統的建造物群保存地区』全86ヵ所」(JTBパブリシング
)、「地域遺産 みんなと奮戦記 プライド・オブ・ジャパンを求めて」(学芸出版社)など。
 
■参加者アンケート結果
設問1 今回の企画内容について(n=63)
1 おもしろかった 46人(73.0%)
2 ふつう 10人(15.9%
)
3 つまらなかった 1人(1.6%
)
設問2 講演Iについて(n=63
)
1 わかりやすかった 44人(69.8%
)
2 むずかしかった 2人(3.2%
)
3 もっと詳しく知りたかった 14人(22.2%
)
4 その他(        
) 10人(15.9%)
設問3 講演IIについて(n=63
)
1 わかりやすかった  42人(66.7%
)
2 むずかしかった  1人(1.6%
)
3 もっと詳しく知りたかった  7人(11.1%
)
4 その他(   
)  8人(12.7%)
設問4 パネルディスカッションについて(n=63
)
1 わかりやすかった  37人(58.7%
)
2 むずかしかった  1人(1.6%
)
3 もっと詳しく知りたかった  10人(15.9%
)
4 その他(         
) 11人(17.5%)
設問5 今回のセミナーについてのご意見・ご感想をお聞かせください。42件
・内容について…大変いい講演だった、パネラーが多い、ギルドの話が感銘深い、など
・時間について…もう少しディスカッションの時間をとってもよかった、など
設問6 今後、参加したいセミナーのテーマや見学したい場所などをご自由にお書きください 20件
・具体的な建築物…三井物産、帝蚕倉庫、群馬県赤石地区、日本ビクターの本社など
・興味のあるテーマ…原三渓翁の足跡、茶の生産から販売までのセミナー、など
設問5 このセミナーは、何を見てご応募いただきましたか(n=63
)
1 ヨコハマヘリテイジからの案内 27人(42.9%
)
2 ホームページを見て 6人(9.5%
)
3 チラシを見て   9人(14.3%
)
4 新聞を見て    8人(12.7%
)
5 その他(   
) 4人(6.3%)